ステップ・バイ・スキップ

あらゆる喜怒哀楽のその先で、それでも軽やかにスキップをしていたい日々のこと

就職先が決まった日々、決まるまでの日々

 

2025/10/28(火)_海浜公園、車内にて


ご縁あって2年以上続けた翻訳業務の、最後の原稿を午前中で提出。そのまま、お礼として渡す菓子折りを何にするか百貨店のショップリストを見ていた。

南方にあるこの街も涼しくなったけれど、最近は雨風により少し肌寒い日が続いている。雨の音に囲まれたい気分だったので、せっかくだからと近くの海浜公園まで車を走らせて、そのまま車内でゆっくりお茶を啜りながら近況を整理することにした。

自室からお気に入りのカビゴンブランケットと、2年前に東京・蔵前の<kako 家香>で調合してもらったルームフレグランスをトートバッグに詰める。途中に寄ったコンビニでプリッツやホットティーを購入しながら、公園の無料駐車場で東屋と海が見える場所に駐車。そのまま後部座席に移り、お菓子を一袋分食べてひと息つく。
後部座席で足を伸ばして、車体のあちこちでぱらぱらと雨雫が弾ける音を聴きながら、窓の向こうに見える赤瓦の東屋を眺め続けた。

あの屋根をこんなにぼんやり見つめるのは、お正月以来かもしれないなぁ。

2025/1/1 故郷の海浜公園にて

就活期間中、ここ3ヶ月のこと


うつ病の再悪化で海外大学を中退・本帰国してから11ヶ月。
愛犬介護の末のペットロスを受け入れられるようになった後、一歩ずつ踏み締めるようにエージェントに問い合わせをし、就活を始めた。3ヶ月ほどの就活の末、結果的にエージェントと関係ない志望職への就職が決まったのが10月のこと。
6年間学び、そして現地で使い続けた言語と大学で学んでいた専攻分野を活かし、故郷の観光業を支える仕事に携わる道を選んだ。

まだ就活を本格的に始める前、観光立県の故郷では自分の『できる』と『やりたい』をやりたいことを全て一度に叶えるのは難しそう、と調べて分かったことが過去にあった。それなら、今すぐ身動きはできなくてもいつかは……と島を離れて一度は上京してみることを、ここ2年くらいでぼんやりと夢見ていた。
だけど、今年に入ってから幼き頃より父親越しに見ていた、色んな『継ぐ』という問題が粛々と目の前に現れ始めた。
残暑が続くとある秋口の日、兄弟から喜ばしい報告が入ったことを両親伝いに知った同日、その話の流れでついに「島から出ることは諦めてほしい」と告げられた。申し訳ない、と言いながら、まるでもう決定事項であると告げるような重々しい声だった。

率直に言って、とてもショックだった。でも、年始にはこの兄弟と父と3人で話を交わしたこともあって、いつかそう言われることもどこかで覚悟もしていた。
この宣告までの過程、私自身が結婚するよりも先に両親と苗字が別れる経験をした。家族の柱として大事にしていた姓を手放すことへの、父の絞り出すような本音を耳にしたこともあった。なので、理解はできた。でもなかなか心からの納得はできなくて、しばらくはひどく動揺して、絶望して、涙が溢れる日々だった。

以上の言葉を引き出すきっかけになった兄弟は、島を出ずに家庭を築く兄弟が殆どの中、自らの意思と行動力で上京してみたり、海外に飛んで行ったり……。そんな背中を見て育った私のことをたくさん可愛がってくれて、他の兄弟の誰よりも、留学や大学進学などあらゆるキャリアチェンジを全面的に応援して支えてくれた。私にとってかけがえのない、偉大なロールモデルだ。
だから、その兄弟が幸せになってくれたことはとても喜ばしいことの筈。なのに、どんなに気を遣える言葉が言えても、暫くは「おめでとう」の一言が喉から絞り出せなくて、そんな自分が軽薄に思えて、嫌で嫌で仕方なかった。
あれから少し時間も経って、ここ最近、ようやくお祝いのギフトを贈りながらその感謝の言葉と祝福を告げることができるようになったばかりだ。
それでも、この一連の話をする勇気はまだなくて。自分の決断のせいで……なんて気負ってほしくはないし、自分もまだこの話題を話し込むうちについ涙が出てしまったり、気持ちが先行して少し吃音混じりの話し方になってしまうことがあるので、いつかゆっくりでも話せたらいいなぁ……とは思っている。

今は『家業の後継は兄弟夫婦が担ってくれるのであれば、存続に関する後継は私しかいないのなら、それを拒むべき理由は今はないよなぁ。』と少しの諦めと、少しの覚悟を抱いた心持ちでいる。それでも、やっぱり少し時代が古いような話に頭抱えることもあるけど、今は『なんとかなれ〜〜!』とハチワレの如く信じて果敢に向き合うしかない。本当に、どうにかなってくれ〜!!!

 

色んな葛藤を新たに抱えながら、手元ではしっかりと転勤のない長期キャリアに方向転換しながら就活を続けていく。当然、新卒の切符は持ち合わせていないので、中途採用のルートで就活をしていく必要がある。長い留学経験やその間に積み上げた実績もいくつかあって、ありがたいことに応募した書類は次々に書類審査を通過した。書類で落とされる経験は1回した程度だった。
ただ、中退した主な理由がうつ病起因のものなので、面接でどんなに県内・海外での実績や内面をアプローチしても通院歴や退学歴を注視され、どんなに好印象を残せた実感があってもお祈りされることがほとんどだった。
一次面接や、一度のみの面接で数社連続で落ちる日々が続いた。

うつ病が当人の生活に及ぼすダメージやその影響は身に染みて嫌というほど学んだので、就活を始める前からある程度は覚悟していた。…例えそう己に言い聞かせていても、不採用通知を貰うのはかなり堪え難かった。ネガティブな心持ちのままだと、まるで『あなたは不要です』と言われているような気さえもした。大学卒業を成すことができなかった自分のコンプレックスを心で抱き寄せる反面、その事実に今はどうやっても抗えないのだ、と情けない気持ちにもなった。
次第に『やりたい』ことから『できる』職業へと視線を移す中で、焦りから妥協することでまたいつか体調を理由に逃げてしまうのでは、という不安で己の背中を撫でる日が続いた。


そんな中、まだ介護生活が続いていた5月に一度、過去気になっていた求人を見返す。兄弟がかつて勤めたことのある職場で、介護中に話を聞きながら求人を覗いてみたことがあったが、その時はあまり心惹かれる求人が見当たらなかったので、しばらく放置していた。
9月には気になった部署求人をいくつか見定め、それに関連するようなイベントの中から直近に開催されるものをピックアップし、実際に体験してみたりもした。盛り上がりのある催しだったこともあって思いの外、未経験でも関心を持てるジャンルだと認識を改めるいい機会になったし、実際に参加していてめちゃくちゃ楽しんでいる自分に驚いた。
同時期、不思議と家族や周囲の人々から「挑戦してみたらどう?」と強い勧めを受けていたこともあり、急に応募するよりもまずは……と職場見学を申し込んだ。2週間後の予約で間が空くことになったので、どうせなら私のことを先に知っていてもらおう、と第一志望の部署宛に履歴書を提出した。見学当日までに書類通過したため、見学の翌日に面接を受けるスケジュールになった。

当日は時間を割いてくれた志望部署のリーダーから開口一番、これまでの経験や実績に関する強い感嘆やかなりの高い評価の言葉を頂けたことがすごく印象的だった。実績内容から営利目的には繋げにくいものであったため、これまで受けた企業ではあまり長くは注目されなかったり、自ら言及することがほとんどだったので、とても驚きながらも感謝の意を述べた。
話をしてみて、今の自分の経験でも大きく貢献できる機会があることに安心して、だんだんワクワクしてきた。時間を割いてくれる相手に気持ちよく話して欲しいから、と気を配っていた笑顔の相槌が、話を取りこぼすことのないように無我夢中で聞く姿勢に切り替わったことに自分でも気づいた。予想外の心情に少し戸惑いながらも安心した。とても前向きで穏やかな面談の時間を過ごしてから、翌日の面談に挑むことができた。
前日に面談をしてくださったリーダーも同席し、部署のトップだと紹介いただいた方からの質問に答える姿を120%の満遍の笑顔で聞いてくださり、そして大きく相槌を打ってくれた。あまりにこちらの味方ですよ、と言わんばかりのあたたかい眼差しに笑ってしまいそうだったけれど、実際すごく落ち着いて受け答えをすることができたのは、この人のおかげで間違いない。

最後の質疑応答を終え、面接が終了した後、少し雑談をできるタイミングがあった。
その際に初めて、面接官から「たしかに、言われてみれば顔立ちも少し(兄弟)さんに似ているね。」との言葉と共に、兄弟のかつての上司であったことを教えていただいた。面接で家族に言及する場面はなかったので、把握した上だったのかととても驚いた。兄弟の知らないところでも、兄弟の背を見て歩んだキャリアでずっと恩恵を受け続けているのだ、と感謝と共に背筋が伸びるような思いだった。

そうして、無事に内定をいただくことができ、人生初めての内定、そして人生初の就職活動にようやくピリオドを打つことができた。途中、いろんな家庭の事情を挟みながらもよく頑張れたな、と過去の自分を褒めたいし、これまで長くサポートしてくれた兄弟や家族、そしてお世話になった方々にも、また改めて細々と恩返しをしていけたらと思う。

 

2025/11/03(月・祝)_就職前日


明日から社会人生活が始まり、オフィスカジュアルの服装に袖を通す日々が始まる。
そして月末には、私が大学を退学し、本帰国をして1年という時が経つ。こういう時、決まって思い出す日々と言葉がある。

昨年11月、まともにベッドから動けずうずくまる中、退学と帰国を選ぶ理由を「これは未来のための戦前撤退だから」と自分に言い聞かせながら、それでも悔しくて虚しくて溢れる涙を飲み続けていた。大学各所でのスタンプラリーや移民局で本帰国に向けた手続きを終えるたび、その帰りに立ち寄ったお店で耐えきれず流れた大粒の涙をハンカチで拭いながら、ゆっくりと空っぽの胃を優しく満たすように一食を食べ続けた自分を思い出す。

去年の今頃、「今頃どうしているか」なんて考えられなかった。
大学を辞めてしまうなんて自分はなんて中途半端だ……なんてさめざめと泣いて絶望していたけど、案外自分はダメではなかったし、人生も絶させることもなく、ずっと続いている。私はずっと、生きることをやめずに息をし続けている。

帰国から間も無くして、故郷の海に足を運んだ日があった。
丸太の柵に手をかけて、夕陽にぼんやり少し照らされた薄明るい海の遠く、この島からどこかの都市へと飛んでいく飛行機を眺めていた。

ずっと、この海を飛んでいく飛行機を眺めていた



いつかの遠くない日の、うつ病寛解して再び島を離れた己の姿を投影しながらも「ついに空っぽになってしまった、何も成し遂げることなく帰ってきてしまった…」と泣いていた自分を、『案外そうでもないかもしれないよ、空っぽではないかもよ。』と初めて受け止めてあげることができた時間だった。
こうして人生の新しい分岐点に立つ今日、この頃を生きる中で、過去の私が持てるだけのありったけの言葉で背中をさすってくれている。そして、その言葉が自分だけのお守りになっていく。
今の私も、そんな過去の泣いていた自分を抱き止めている。これまでの挫折が、これからの支えになってくれると信じて、今日も生きている。

 

海を眺めながら、自分を見つめ直した日の日記


こういう時、ひっそりと日記を書いていてよかった、と過去の自分に感謝するよ。
いつもありがとうね。これからも、どうぞよろしくね。

明日から、まずはゆっくり頑張っていくぞ。

 


*第6回日記祭頒布作品、及びこれからの活動について

諸般の事情により、過去、日記祭で頒布したような活動はしばらくお休みいたします。それに伴い、通販などの計画も同様にしばらく停止します。その間はこのはてなブログで、社会人として軽やかなスキップを試みる記録を残したいと思います。
いつかこれらをブログ題《ステップ・バイ・スキップ》として新刊で形にできたら、と考えているので、その際は既刊共々どうぞよろしくお願いします。

今月末の第7回日記祭も行きたかった……!
次回、もしまた春の開催がある頃にはぜひ飛んでいきたいな〜。

愛犬を天国に送り出して四十九日が経ちました

 

5月、実家で一緒に暮らすラブラドールの女の子を乳がんで亡くしました。
昨日はそんな愛犬の四十九日でした。(我が家では、愛犬にも四十九日があるものとしている)

15歳5ヶ月とご長寿犬で、先天性の甲状腺の病気で長期にわたり投薬治療をしていたけど、きっとがんにならなければもっともっと長生きしていたと思う。
昨年12月に瞼裏の出来物の除去手術をしたとき、乳腺に腫瘍の始まりが見つかったのが始まりだった。丸半年ほど闘病してもらったり、晩年に介護をした末、安楽死の当日にチェーンストロークス呼吸(いわゆる死戦期呼吸)をし始め、とても穏やかに旅立っていった。

目の手術をしたから眠るときもずっとがっつり目を開けているように見えていて、介護中はよく様子を見ては「まだ息してるよね…?」と恐る恐る鼻に手を近づけて、呼吸があるかを確認した。実際に看取ったとき、体のあらゆる力を抜いて脱力し切った姿とその顔を見て、ああ全然違うなぁ、と思ったのをよく覚えている。
安楽死の処置を兄弟の車のトランクで行ったあと、最後に身なりを整えてくれた看護師さんが「(愛犬)ちゃん、お漏らししないようにしてたみたいですよ」と教えてくれて、その健気さにまた目から涙が溢れた。


ずっと、ずっといい子だった。
晩年、右半身の皮膚の炎症がひどくてずっと痒かっただろうに、寝返りを打ちたかっただろうに、ずっとおとなしく横たわってくれていた。
ご飯も、その最期の間で固形物を食べることができた。末期の末期となると流石にそんなに量は食べきれなかったけど、それでも死ぬ前の数日から当日まで、焼肉・ケンタッキーチキン・皮を剥いたデコポン・いちご・ソフトクリーム・テリヤキバーガーなどいろんなものが食べられた。おかげで、最後にたくさんの美味しいものを一緒に味わうことができた。

最初、余命1ヶ月と宣告されたこともあり、年越しをすることをひどく恐れていた。年が明けたらすぐ死んでしまうなんて、到底考えられなかった。詳しい検査の結果、悪性中の悪性ではないとの朗報だったけど、それでも持って春。それか夏とのことだった。
それからは毎晩、犬らしからぬ大きないびきを自室で聞いては「あとどれぐらい一緒にいられるんだろう。このいびきも聞けなくなってしまうのか」といつかの日を思う計り知れない悲しみと、病気をどうにもしてあげられない自分の無力さにただ嗚咽を漏らした。

4月になり、後ろ脚が腫瘍に圧迫されて自力で起き上がることが困難になった。おしっこも間に合わなくなってしまって、身体をぐっしょり濡らしてしまうようになった。腫瘍の転移も、リンパに乗ってかなり広範囲にわたっているようで、体のいたるところにボコボコとした感触が残っていった。
日記祭出店のために東京に赴き、足早に帰ってきたその夜から夜間介護を始めることにした。
毎晩、いつかのために22時半上がりの最終シフトに入れ続けたバイトを上がり、23時頃に帰って様子を見始めて、次第に家族の誰かが起きる夜明けまでそばにいるようになった。
バイトから帰ると、うんちも間に合わなくて家もその身体も汚れてしまっている時もあった。そんな日は夜な夜なゆっくりお風呂に入れたりもした。物分かりが大変良かったので、午前2時とか4時とか、決まって何かして欲しいときだけ吠えて教えてくれた。
でも、よく訳も分からず吠える時間もたまにあったりして、その時は「不甲斐なくてごめんね」と謝りながら、身体をめいっぱい撫でながら朝を迎えた。
連日の不眠で微熱を出し続けては 身体が悲鳴をあげることもあった。それでも、残りわずかな時を少しでも後悔しないように、できる限り尽くしていたかった。

そうして1ヶ月と少しの間お世話をし続けて、5月の半ばに旅立ちを見届けた。


あの子の犬生を振り返ると、私はきっと「良い飼い主」ではなかったと思う。

もっと遊んであげられただろうし、散歩も全然足りなかった。学生時代から長らく自分の将来にいっぱいいっぱいで、留学・進学を理由に年単位で日本を離れることも近年続いていた。もっともっと、そばにいてあげる方法なんていくらでもあったと思う。
そんな不甲斐ない飼い主だったにも関わらず、いつだって私を視界に入れるたびに大きく尻尾を振って、リードを口に咥えて身体に擦り寄ってくれた。頭を撫でればもっと、とせがむように体をくっつけてくれて、名前を呼ぶだけで、喜びを表現してくれた。紛れもなく、私の知る「愛」というものはあの子の姿を模っている。
あの子に愛してもらえた人間だった、という愛犬の思いやりに今日も生かされている。やさしいあの子の誇れる家族でありたいという思いで、今日も生きている。

 

この四十九日間の間、すでに色々なことが起きた。

1ヶ月が経つ前に、定期的に実家の玄関を犬種も毛色も同じ子犬が跨ぐようになった。生後2ヶ月に満たない、小さな男の子で、名付けられた名前もたった一文字しか変わらない。
あらゆる事実が受け入れがたくて、夜な夜なまだ重みの変わらない骨壷を抱いて泣いた。共に看取った家族と抱いた悲しみの形や、その埋め方の違いに深く失望しては静かに衝突をした。
今でこそまだ小さなその子の名前を呼べるようになったり、お世話も受け持つけれど、やっぱりまだあの子がいなくなったこの「もういない生活」のことだけを考えていたい心のままだ。でも、私はまだそのままでもいいのだろうと思う。

四十九日の当日、再び家族で集まってケンタッキーを頬張る。
最期まで躊躇して与えることはしなかったチョコケーキを、あの子の分と私の分に取り分てもらいながら、月命日を忘れてしまっていたと涙ながらに語る兄弟の話を聞いた。Instagramのいつものストーリー日記で想いを綴る私の投稿を見て、ようやく気づいたらしかった。子犬を迎えた日々で忘れてしまった事実と、あの子から目を逸らし続けているのかもしれない、と苦しんでいるようだった。何も大した言葉をかけてあげることはできなくて、言葉にならない空白の時が台所を包んだ。
しばらく怒りの感情でしか見つめられなかった兄弟にも、兄弟にしか分からない苦悩や悲しみ、苦しみがあったはずで。実際、私は実家で日々の介護をするばかりで、病院へ連れ出しては容態の変化を見てくれたのは実家を離れた兄弟だった。違う悲しみだったと嘆いていたけど、元々、最初から同じ悲しみではないのは当然なことなんだと、今ならわかる。
色々と思い悩んだ末、私はもう私のことだけに集中して、そうして愛する家族に想いを馳せていようと思えた。
だから、何かわずかなしこりを感じても、もう、大丈夫だった。

目が覚めて、愛犬の骨壷に手を添える。
そうして、側のお気に入りの花瓶に生けた花に水をあげる。
あの子のことをたくさん思い出したり、人に聞いてもらったとき、その事を語りながら新しく花を届けて、ずっと大好きだと愛を伝える。それを日々繰り返す。
そして、時折あの子のいた場所を見つめたり、あの子のためだけにやっていた癖が抜け切らないことに笑っては、少しだけ強く「またいつか会いたい」と願う。

そんな日々を、もうしばらく愛していこうと思う。

 

 

いつか、またスキップがしたい25の夏

 

ふと、気持ちが弾むとスキップをするのが好きだったな、と思い出した。

今日みたいな感じの梅雨明けの空の下、幼稚園・小学校と学校からの帰り際。目の鼻の先にある家に続く、そのわずかな距離の一本道を飛び跳ねるように帰ることが日課だった。
ご機嫌の理由は「夕方からCS放送で見たいアニメがある」とか、ある時は「大好きだけど人気で滅多に借りられない本が偶然手に入った」とか「今日もテストも描いた絵も褒められて、授業もたのしかった」「友だちとたくさん喋れてうれしかった」とか、そういうささやかな理由だった気がする。高学年に入ってからは、家にやってきた小さなラブラドールの赤ちゃんわんこと遊べる日々がしあわせで、待ち遠しくて、地面を勢いよく蹴っては風になりきった気持ちで走るように帰っていたことを思い出した。

その一歩目、スキップをするためのステップを力強く踏み締めるとき。

ザクっジャリっと音を立てるその感触がなんとなく好きで、地面を大きく蹴り上げてふわりと空に浮くその瞬間。当時だけはノッポだなんだと妬まれていたおかげで「誰よりも空に近い」と信じては、幼いながらにフフン、と優越感を感じていた。

 

そんな日々から15年経った、今。スキップなんて長いことしていない。

再来月で25歳になる私は、まあ、それなりに挫折をした。
高校卒業後に台湾で中国語(台湾華語)を学び、 コロナ禍に翻弄されつつも、同級生と3年遅れで台湾国立の大学へ進学を果たしたりと、それなりに実を結ぶ経験もした。だけど、いろんなことがあってうつ病を発症して休学したり、活力を取り戻して復学した後も、寛解した症状が早急にぶり返したことで結局「中途退学」という道を歩んだりもした。それが昨年11月のこと。

そして、それから間もなくして愛犬が乳がんを患った。発見から半年に渡る闘病の末、安楽死という形で旅立っていった。15年と5ヶ月だった。
苦しんでほしくない一心で「ピンピンコロリでいきなね。」と年の近いすぐ上の兄弟と話していて、本当にその通りに処置当日を迎えた夜中に不可思議な呼吸(チェーンストロークス呼吸という、いわゆる死戦期呼吸)をし始めて、その日の夕方、苦しみ出してしまう前に天国へと送り届けた。
その日まで少しずつながらもフードや果物などの固形食を食べることができていて、医師からも本当に不思議だ、と驚かれるくらいの健やかで穏やかな最期だった。

それがちょうど、今日から1ヶ月前。ようやく、一月が経った。
ここ最近まで「いつか、また新たに犬と暮らせたらいいよね」と、もしもの話をしていた。

だけどもほんの数日前に兄弟夫婦が子犬を迎え入れたことで、再び実家に(平日日中だけだが)犬がいる生活が戻ってきた。あまりにも早かった。
その過程は私視点だととても目まぐるしいもので、もうしばらく「もういない生活」に静かに想い馳せたかったのは自分だけだったのか、と取り残されてしまったような気持ちに襲われ続けた。もちろん、兄弟夫婦には2人だけにしか分からない悲しみや葛藤があるはずだけど、それを理解して寄り添うだけの心の余裕もないのが現状。
「無事に介護を終えられた安心感が強い」と気丈に振る舞い続けたツケが回ってきたかのように涙する日々が続き、受け入れる他ないのに、自分の"悲しみ"の形と違うということへの「悲しみ」を真正面に受け止め切れず、形を変えて「虚しさ」や「怒り」に変わってしまうのを抑えることができずにいる。
まるで化け物のように固執した、そんな己の醜さに心底嫌気がさして、その罪悪感でまた泣く。
泣き腫らして冴えた頭で「こんな歳になってまで、まだ実家にお世話になり続けてる自分が一番クズだ」と我に返った。
ハムスターのように弱り縮こまった心だったけど、通信制大学母語で勉強して学士を取りたいこと。陸続きの本土にいつか住んでみたいこと。もう、遠回りして考えたり勝手に我慢する気でいたこと。その事にハッとして、もうその全部にちゃんと当たって砕けてしまおう、とメンタルが急にゴリラになった。
そのまま、介護を始めてから開くことをやめていた就職エージェントのサイトにアクセスし直して、勢いのままにオンラインの就活セミナーを受講した。

それが3日前。
あまりに目まぐるしくて。なんか、もう、いっぱいいっぱいだ。

いつかの幼い頃に足高くスキップしていたあの頃の面影なく、転んでは起き上がりきれずに地を伏して、そうして気力なくただ寝っ転がって空を仰いでいる。
そして突発的に、堕落的な見せかけだけの大人になってしまった事実に耐えられなくて「もう消えてしまいたいな」とかいう、大した覚悟もない、ただ「ここでは無いどこかへ行きたい」という気持ちだけを積み上げて、そうして高度を上げる痛みの塔が風に煽られて大きくぐらつく。その繰り返しも、とっくに飽きているのにやめられなかった。

いつから転けるようになっちゃったんだろう、とかぼんやり考えちゃうこともあるけど、今もうそんなこと考えたって仕方がない。
「仕方がないから、一番早い"今"のうちに、また一歩ずつ歩んでいこうね。」という自戒といつかの自分へエールを込めて、この日記を「ステップ・バイ・スキップ」と名付けた。


これからここに残していくのは「七転び八起き」の、いろんな喜怒哀楽のその先で、また軽やかにスキップをしてみたい日々のこと。たまに、いや、よくメソメソ…クヨクヨ…とする日もあるかもしれないけど、そんなことも最後には受け入れながら、乗り越えていきたいなぁとか思っている。

いつかの私が、ゆったりとステップを踏んで、そして、またスキップなんてしちゃってたらいいよなぁ。
できれば、あの時みたいな軽やかな一歩をまた踏んでみたい。
でも、まずは下手なスキップでも軽やかに決めてやります。