ステップ・バイ・スキップ

あらゆる喜怒哀楽のその先で、それでも軽やかにスキップをしていたい日々のこと

愛犬を天国に送り出して四十九日が経ちました

 

5月、実家で一緒に暮らすラブラドールの女の子を乳がんで亡くしました。
昨日はそんな愛犬の四十九日でした。(我が家では、愛犬にも四十九日があるものとしている)

15歳5ヶ月とご長寿犬で、先天性の甲状腺の病気で長期にわたり投薬治療をしていたけど、きっとがんにならなければもっともっと長生きしていたと思う。
昨年12月に瞼裏の出来物の除去手術をしたとき、乳腺に腫瘍の始まりが見つかったのが始まりだった。丸半年ほど闘病してもらったり、晩年に介護をした末、安楽死の当日にチェーンストロークス呼吸(いわゆる死戦期呼吸)をし始め、とても穏やかに旅立っていった。

目の手術をしたから眠るときもずっとがっつり目を開けているように見えていて、介護中はよく様子を見ては「まだ息してるよね…?」と恐る恐る鼻に手を近づけて、呼吸があるかを確認した。実際に看取ったとき、体のあらゆる力を抜いて脱力し切った姿とその顔を見て、ああ全然違うなぁ、と思ったのをよく覚えている。
安楽死の処置を兄弟の車のトランクで行ったあと、最後に身なりを整えてくれた看護師さんが「(愛犬)ちゃん、お漏らししないようにしてたみたいですよ」と教えてくれて、その健気さにまた目から涙が溢れた。


ずっと、ずっといい子だった。
晩年、右半身の皮膚の炎症がひどくてずっと痒かっただろうに、寝返りを打ちたかっただろうに、ずっとおとなしく横たわってくれていた。
ご飯も、その最期の間で固形物を食べることができた。末期の末期となると流石にそんなに量は食べきれなかったけど、それでも死ぬ前の数日から当日まで、焼肉・ケンタッキーチキン・皮を剥いたデコポン・いちご・ソフトクリーム・テリヤキバーガーなどいろんなものが食べられた。おかげで、最後にたくさんの美味しいものを一緒に味わうことができた。

最初、余命1ヶ月と宣告されたこともあり、年越しをすることをひどく恐れていた。年が明けたらすぐ死んでしまうなんて、到底考えられなかった。詳しい検査の結果、悪性中の悪性ではないとの朗報だったけど、それでも持って春。それか夏とのことだった。
それからは毎晩、犬らしからぬ大きないびきを自室で聞いては「あとどれぐらい一緒にいられるんだろう。このいびきも聞けなくなってしまうのか」といつかの日を思う計り知れない悲しみと、病気をどうにもしてあげられない自分の無力さにただ嗚咽を漏らした。

4月になり、後ろ脚が腫瘍に圧迫されて自力で起き上がることが困難になった。おしっこも間に合わなくなってしまって、身体をぐっしょり濡らしてしまうようになった。腫瘍の転移も、リンパに乗ってかなり広範囲にわたっているようで、体のいたるところにボコボコとした感触が残っていった。
日記祭出店のために東京に赴き、足早に帰ってきたその夜から夜間介護を始めることにした。
毎晩、いつかのために22時半上がりの最終シフトに入れ続けたバイトを上がり、23時頃に帰って様子を見始めて、次第に家族の誰かが起きる夜明けまでそばにいるようになった。
バイトから帰ると、うんちも間に合わなくて家もその身体も汚れてしまっている時もあった。そんな日は夜な夜なゆっくりお風呂に入れたりもした。物分かりが大変良かったので、午前2時とか4時とか、決まって何かして欲しいときだけ吠えて教えてくれた。
でも、よく訳も分からず吠える時間もたまにあったりして、その時は「不甲斐なくてごめんね」と謝りながら、身体をめいっぱい撫でながら朝を迎えた。
連日の不眠で微熱を出し続けては 身体が悲鳴をあげることもあった。それでも、残りわずかな時を少しでも後悔しないように、できる限り尽くしていたかった。

そうして1ヶ月と少しの間お世話をし続けて、5月の半ばに旅立ちを見届けた。


あの子の犬生を振り返ると、私はきっと「良い飼い主」ではなかったと思う。

もっと遊んであげられただろうし、散歩も全然足りなかった。学生時代から長らく自分の将来にいっぱいいっぱいで、留学・進学を理由に年単位で日本を離れることも近年続いていた。もっともっと、そばにいてあげる方法なんていくらでもあったと思う。
そんな不甲斐ない飼い主だったにも関わらず、いつだって私を視界に入れるたびに大きく尻尾を振って、リードを口に咥えて身体に擦り寄ってくれた。頭を撫でればもっと、とせがむように体をくっつけてくれて、名前を呼ぶだけで、喜びを表現してくれた。紛れもなく、私の知る「愛」というものはあの子の姿を模っている。
あの子に愛してもらえた人間だった、という愛犬の思いやりに今日も生かされている。やさしいあの子の誇れる家族でありたいという思いで、今日も生きている。

 

この四十九日間の間、すでに色々なことが起きた。

1ヶ月が経つ前に、定期的に実家の玄関を犬種も毛色も同じ子犬が跨ぐようになった。生後2ヶ月に満たない、小さな男の子で、名付けられた名前もたった一文字しか変わらない。
あらゆる事実が受け入れがたくて、夜な夜なまだ重みの変わらない骨壷を抱いて泣いた。共に看取った家族と抱いた悲しみの形や、その埋め方の違いに深く失望しては静かに衝突をした。
今でこそまだ小さなその子の名前を呼べるようになったり、お世話も受け持つけれど、やっぱりまだあの子がいなくなったこの「もういない生活」のことだけを考えていたい心のままだ。でも、私はまだそのままでもいいのだろうと思う。

四十九日の当日、再び家族で集まってケンタッキーを頬張る。
最期まで躊躇して与えることはしなかったチョコケーキを、あの子の分と私の分に取り分てもらいながら、月命日を忘れてしまっていたと涙ながらに語る兄弟の話を聞いた。Instagramのいつものストーリー日記で想いを綴る私の投稿を見て、ようやく気づいたらしかった。子犬を迎えた日々で忘れてしまった事実と、あの子から目を逸らし続けているのかもしれない、と苦しんでいるようだった。何も大した言葉をかけてあげることはできなくて、言葉にならない空白の時が台所を包んだ。
しばらく怒りの感情でしか見つめられなかった兄弟にも、兄弟にしか分からない苦悩や悲しみ、苦しみがあったはずで。実際、私は実家で日々の介護をするばかりで、病院へ連れ出しては容態の変化を見てくれたのは実家を離れた兄弟だった。違う悲しみだったと嘆いていたけど、元々、最初から同じ悲しみではないのは当然なことなんだと、今ならわかる。
色々と思い悩んだ末、私はもう私のことだけに集中して、そうして愛する家族に想いを馳せていようと思えた。
だから、何かわずかなしこりを感じても、もう、大丈夫だった。

目が覚めて、愛犬の骨壷に手を添える。
そうして、側のお気に入りの花瓶に生けた花に水をあげる。
あの子のことをたくさん思い出したり、人に聞いてもらったとき、その事を語りながら新しく花を届けて、ずっと大好きだと愛を伝える。それを日々繰り返す。
そして、時折あの子のいた場所を見つめたり、あの子のためだけにやっていた癖が抜け切らないことに笑っては、少しだけ強く「またいつか会いたい」と願う。

そんな日々を、もうしばらく愛していこうと思う。